福岡県をするなら-福岡県のススメ|福岡県にチャレンジ

福岡県をするなら

福岡県の体験談を、実際に分かりやすくご説明します。 反幕府派の御家人たちが一斉に押し寄せ、幕府とともに滅亡するのです。天皇家を二分する戦いとなった南北朝の時代には、南朝、北朝どちらの本拠地ともなって激しい戦いが繰り広げられますが、のちに戦いが終結すると時の将軍、足利義満が福岡を拠点に勘合貿易を開始。当時の中国の国家である明と交易をはじめます。以降は幕府の勢力が衰退し、九州全土、とりわけ福岡県の博多一帯は有力大名たちが争う抗争の場に。

応仁の乱から戦国時代へと移っていくころ、当時にして人口1万戸を数えるといわれた博多の町は少弐氏、大内氏、大友氏と、その支配者が転々と変わっていきます。戦国時代も末期になると大友氏と毛利氏の争いを経て肥前の龍造寺氏、薩摩の島津氏も加わって博多をめぐる抗争がさらに激化。幾度となく町は焼かれ、市街地の半数が焼失したという戦いもあるほどです。九州の有力大名が競った争奪戦は、最終的に九州全土を掌握しかけた島津氏の勝利で終わるかと思われましたが、大友氏の援軍要請を受けた豊臣秀吉が、これを好機とばかりに九州征伐を開始。

30万ともいわれる豊臣軍と交戦し、これを退ける場面もありましたが、結果としては降伏を受け入れ、薩摩一国に抑え込まれます。最終的に博多はもとより、福岡一帯も秀吉のものとなったわけですが、秀吉自身が九州の地を治めるはずもなく、有力大名に各地を分配することとなります。秀吉が彼にこの地を任せたのは、それだけ博多を重要視していたためで、交易上の要衝として速やかに博多を復興させ、九州に残る有力大名ににらみを利かせる役割もあったのです。家康は大名の配置換えを行い、新たに福岡一帯を支配することになったのが、秀吉の軍師、黒田官兵衛にはじまる黒田氏でした。

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